幼児期からの外国語教育 - 国際人って何ですか?

日本人として生まれた限りは、最低限、正しい日本語、美しい日本語を話せなくてはなりません。日本人の母国語は「日本語である」ということを、まずは、徹底的に親として、意識の中に叩き込むこと、それは、思っている以上に大事なことです。

時代は21世紀。IT技術の進化、インターネットの普及で、まさに20世紀晩期から、世界に急速に狭くなり、「国際人」という言葉は、育児、幼児教育の中でもキーワードになりました。
 当然、外国語教育、とりわけ英語教育熱は高まり、今では幼児期からの英会話は言うに及ばず、幼児期からの留学、親子留学など、ひと時代前には考えも及ばなかった事が、徐々にではありますが浸透しつつあります。
 しかし、こういう時代だからこそ、ここでもう一度、じっくり「国際人」の意味、その上での「外国語教育」そのものを考えていただきたい、と思います。

日本人は、確かに外国語の不得意な国民です。中学から6年間も週に2回以上の英語の授業があるにも関わらず、高校教育を終えてもまともに英語が理解できない、話せないという人がほとんど・・・という現実は、本当に情けない思いですね。
 もう20年近く昔のことですが、夫はインドネシアに単身赴任をしておりました。母子で年に数回、ジャカルタを訪れ、家族でバリで休暇を過ごす時、夫や私がホテルで英語を話すと、とても驚かれました。当時、私達が英語で話すと、必ず「韓国人か?」と尋ねられたものです。要するに、インドネシア駐在中の韓国人は英語が堪能だけれど、日本人はほとんど英語が話せない、というのです。
 日本では、発展途上国として認識されているインドネシアですが、高い教育を受け、世界的なリゾートのバリで仕事をしている現地人は、総じて英語は上手で、ドイツ語、フランス語、オランダ語(インドネシアは、戦前はオランダ領)等、英語以外の外国語を自由に操れる人も少なくありませんでした。
 とにかく、経済大国と呼ばれて久しい日本ですが、「日本人は英語が下手」という現実は、かなり致命的なマイナスポイントと言えますね。そういう状況を十分に認識し、苦々しく思っている親達は、「我が子には、最低限、英語くらいは自由に話せるようになって欲しい!」そう願うのは極々当然の事でしょう。

しかし、ここでもう一度、整理して考えてみましょう。
そもそも、「言葉」とは、何のために存在しているの?「言葉」とは何でしょうか?
 その答えは、誰もが知っていますね。言葉とは、「何かを伝える手段」です。つまり、言葉とは「道具」です。道具にすぎないのです。
 幼児期に大切なことは(じつは、幼児期に限らず、小中高生でも社会人でもそうですが)道具としての「言葉」を磨く以上に、「何を伝えるか?」のほうが、何倍も大事なのですね。そうは思いませんか?
 おいしいコーヒーが飲みたい、おいしい紅茶が飲みたい、という時に、お湯を沸かす道具であるヤカンコレクターになったところで、おいしいコーヒーや紅茶は飲めません。コーヒーや紅茶の知識を持つこと、そして、何よりもおいしく味わえるだけの味覚や感性が必要でしょう。

「何を伝えるか?」その「何」を、親が、大人が、社会人の先輩としての責任において、わが子に教え、伝えていくことが幼児期の教育の真髄であり、また、この部分が「人としての豊かさ」となり、広く大きく、豊かな人として育っていくための「基礎の部分、土台」になっていくのです。その「豊かさ」、つまり豊かな感性、深い知性、品性は、幼い頃からの親を始めとする子供の身の回りの環境によって大きく左右されます。

今ではすっかり大きくなられましたが、私の教室で、帰国子女のお嬢様をお預かりした事がありました。そのお嬢様は、生後5ヶ月からお父様のお仕事のご都合で渡米。帰国をされた時にはすでに6歳目前でした。
 しかし、彼女の日本語は非常に正確で、とても美しい日本語が話せました。語彙も豊かで、お友達と話す言葉と、大人を相手に話す言葉を、きちんと使いわけることもできました。こちら側から話す日本語を理解する力も非常に高かった事に感心しました。
 アメリカの地方都市に駐在をしていたそのご家族は、まわりに日本人の少ない生活で、幼稚園もローカルもナーサリーに通っていたようで、彼女は極々一般的な5歳児としての英語も話すことができました。

要するに、このご家庭では、0歳児から5年間、日本人であり、やがて日本に戻る我が子の将来を見据え、確固とした教育観を持ってお嬢様を育てられたのです。日常、彼女が現地での幼稚園生活が楽しめるように英語力を養いはしたものの、彼女が失う5年間の「日本人の子どもとしての生活」を「ないもの、失われたもの」としないうように、ご両親は、家庭の中では食生活を含む「日本人としての生活」を大切にし、日本の行事や風習、文化にこだわり、お嬢様を日本人の子どもとして育てていらしたのです。
 「うらしまたろう」も「Sesame Street」も、どちらも彼女のお気に入りでした。商社勤務のお父様も、決して英語まじりのカタカナ日本語を好まれるような方ではなく(お父様ご自身も、中高大とアメリカで教育を受けた方でしたが)、お母様もきれいな日本語を話されるステキなママでした。
 私は、この5歳のレディーこそ、立派な「国際人」だとしみじみと感じていましたし、同時に、彼女を育てるご両親を、すばらしい「国際人」だと思いました。

いかがでしょうか?語学が堪能、というだけでは、ピーマンのようなもの、と私は思っています。中身の詰まった人を育てる事(まずはその重要性を理解する事)、その上で次に大事なものは何か?を考えるべきではないでしょうか?
 そして何より、この「中身」、つまり人としての豊かさ、品性、日本人としてのアイデンティティーは、幼い頃から両親のもとで育てられる環境で決まる、という事を忘れないでほしい、と切に願っています。

「国際人」の定義づけは、非常にむずかしいものだと思います。しかし、少なくとも、確固としたアイデンティティーのない、外国語だけが堪能な人を「国際人」と呼ぶとは思えません。