自分で考える子供を育てる

自分の頭で考える子ども・・・なかなか見当たりません。私は仕事がら、たくさんの3歳~6歳時と身近に接していますが、初めて会った時から、「おお、この子は、しっかり物事を自力で考えてるなあ・・・」と思ったことは、残念ながら、ほとんどなくなってしまった、というのが現状です。
   けれど、自分の頭で考え、稚拙であったとしても、「ああ、そうだったんだ・・・だったら~~しよう!」と思えることは、それはそれはすばらしいことなのです。そして、そういう思考回路ができあがっている子どもは、幼稚園た保育園、小学校でいかなる困難に遭遇しても、その時々で自分で考え、判断し、ちゃんと果敢に立ち向かっていけるのです。

最近では、本当に「すごい幼稚園児」が増えました。
ピアノやヴァイオリンが上手な子ども、25メーターも泳げる子ども、すらすらと絵本を読む子ども、動物や虫に詳しいども、恐竜に詳しい子ども、ちょっとした会話なら英語でもOKという子ども・・・それはやはりすごくステキなことですね。
 ところが、なかなか面白い現象もあるのです。虫に詳しい子どもが、実際には虫が怖くて触れなかったり、動物に詳しい子どもが「動物園は臭いから行きたくない!」と言っていたり、ピアノやヴァイオリンが上手な子どもが、あまりどんな音楽にも感動しなかったり、泳げる子どもが海や川がきらいだったり・・・ちょっとアレ?と思うこともよくあります。

そんなことから私は気づいたのですが、最近は、すべての身の回りのことを体や肌で感じ、感動し、そういう感動の経験から学ぶ・・・というよりも、視覚や聴覚から興味を持ち、視覚や聴覚だけに頼って深く掘り下げていったり、教えられたりしたことから、あたかも「知っている」ような気分になってしまっている、という子どもが圧倒的に多い、のです。まさに「バーチャル世代」とでもいうのでしょうね。
 でもね、実際には、それらは「知っている」というに過ぎず、それでは「見たことがある・聞いたことがある」という範疇を出ていない、とも言えるのです。
 そういえば、かなり昔のことになりますが、有名大学を卒業し、社会的にかなり優秀と思われる若者が、ゲームでの操縦経験だけで、あたかも自分は操縦できるような錯覚に陥り、小型飛行機を盗んでレインボーブリッジをくぐろうとした事件がありました。これは、こういう「バーチャル世代」の最も悪しき副産物ではないでしょうか。

ここで、ちょっと二人の中学生のお話をしてみましょう。中学生の話?なななんで?そんな先のことなんて、想像もできない!とおっしゃるでしょうね。
 でもね、今の目の前のお子様の毎日は、確実に5歳、10歳、15歳へと続いているのです。まさに0歳、1歳、2歳、3歳の「今日」が、どんな小学生、どんな中学生になっていくか?の、基礎の部分になっているのです。そのことを意識していなければなりませんからね・・・

K君は、有名な名門私立中学に通う中学2年生。熾烈な中学受験を経験し、志望校に入学しました。小学校4年生から3年間、K君は塾通いをし、同級生から「あいつは受験組」と何となく排除され、ひたすら受験勉強をしてきました。毎週末の塾でのテスト、その結果に一喜一憂する両親・・・K君は反発を感じながらも、「いい中学に行くこと=はすばらしい未来が開ける」という両親の言葉を素直に信じ、がんばり、念願叶って入学。両親は大喜び。特にお母様の喜びはかなりのもので、K君はそれまでにも増して、お母様の自慢の息子になりました。
 K君が入学した学校は、自由の大海、パラダイスでした。自律自尊の校風の中で、K君は何ら束縛されることなく、自由でした。
 しかし、自由であることは、K君が思っていたよりも、なかなか大変なことでした。それまでは、両親にお膳立てされた学習をこなし、両親の敷いてくれた線路の上を反発を感じながらも走ってきていたK君。こうしなさい、ああしなさい、と言われることに抵抗はあっても、思えばそれは楽なことでした。そして、その通りにしたからこそ、彼は今の環境を手に入れたのです。
 けれど、その学校では、先生でさえ、誰もレールを敷いてはくれません。は違っていました。自由であるが故に、すべて自分で考えて判断し、行動しなければなりません。

たとえ、自分の選択した道が間違っていたとしても、誰を責めるわけにはいきません。今までは「お母さんが悪いんだ!お母さんが○○言ったから、僕は○○したんだ。でも、こんなになっちゃったじゃないか!!」とお母様相手に怒鳴ればよかったし、お母様はK君が怒鳴ると、必ず悲しい顔をして「ごめんね、K君。ママが悪かったわ。」と言ってくれたのに・・・その学校では、その手は通用しません。
 どんなクラブが自分に向いているのかわからず、自分が何をしたいのかもよく理解出来ず、なとなくまわりを見ているうちに時間だけが過ぎて2年生に・・・しだいにK君は自由を持て余し、自由の良さを理解する前に、自由に翻弄され、その自由を糧に成長するだけの力が身についていなかったために、自由につぶされていきました。
 不登校になりつつあるK君は、悲しい顔をしておろおろするばかりのお母様に、泣きながら叫ぶのです。「ママが悪いんだ!僕はあんな学校には行きたいなんて一言も言わなかった!パパやママがいい学校だっていうから、一生懸命にがんばって入ってやったのに・・・パパやママが悪いんだ!学校なんか嫌いだ!!パパのせいだ、ママのせいだ!!」

どんな子どもも、生来の性格がありますが、実際には「どんな環境で、どんな親に、どのように育てられてきたか」によって大きく違ってきます。
 愛情という名の下に、守られて、自分で考え、判断する機会を与えられないで育ったK君。K君が失敗をして転ぶ前に、杖を持たせ、転びそうになったら、きっと担架と名医を用意して、K君を助けてきたであろう両親。
 K君は、自分でも気付かぬうちに指示待ちの子供になってしまっていたのです。いざ、自分で行動しないといけない状況に置かれてみた時には、すでに13歳、14歳。世の中では、十分に自分の力で物事を考える年齢、と思われているティーンエイジャーになって、彼は初めて愕然としたことでしょう。
 何も自分では考えられない、決断出来ない・・・かわいそうなK君は、そんな不甲斐ない自分にイライラしても、急にすべてが好転はしてくれません。そして結局、K君の悲しく切ない気持ちのはけ口は、甘えの裏返しとして、両親に向けられるのです。
 両親は困惑。両親は、本当の意味でのK君の苦悩を理解してやろうとする以前に、「自慢の息子」でなくなっていくK君を正視できず、そういう状況にK君を追い込んだ原因を、K君のまわりから見つけだそうとします。
 「この中学が悪い」「担任がKを理解していない」「乱暴な○○君達が悪い!」「校長の監督が十分ではない!」「うちのKのような繊細な子はまわりに理解されない!」しかし、こんなふうに騒げば騒ぐほど、K君は出口のない迷路に入って行ってしまうことになることに、親は気付きません。そして、親子は悪循環を繰り返し、親子関係は悪くなっていき、親も子も傷つき、満身創痍になる・・・けれど、そこに愛情は生まれず、子どもは反発と反抗、親は困惑と失望、他への嫉妬で時間を過ごすことになる・・・

気づかれたでしょうか?
ローマは一日にして成らず。人も同じです。K君とK君の両親の関係は、間違いなく、K君が「生まれた瞬間」から始まっていたのです。
 もし、K君が0歳のころから、「自分で考える習慣、判断し、行動する習慣」の中で十数年を送ってきたら・・・きっとK君の「今」はまったく違うものになっていたでしょうね。

世の中では、よく「見守ること」という言葉を使います。見守る・・・見て、そして守ってやる・・・手を出すのではないのです。
 見守るとは、決して楽なことではありません。あれこれと世話をやき、何でも親がしてしまうほうが、どんなに簡単かしれません。
 たとえば、時には自分のくだした判断の間違いによって失敗をすることもあるでしょう。傷つくこともあるに違いありません。「見守る」とは、そういう時に我が子を癒し、どうして失敗してしまったのかを教え、正しい方向に導いてやること、です。そうすれば、我が子は失敗からまた多くを学ぶことでしょう。そしてその子は、自分を癒し、正しい方向に導いてくれる両親に深い感謝と愛情を感じるに違いありません。

子どもは「0」で生まれてきます。未熟です。当然、親はその未熟な我が子を庇護してやらなければなりません。
 しかし、子どもは実際には、生まれた瞬間から、自分の力で生きていかなければならないのです。幼稚園入園前のナーサリーのようなところでも、お稽古でも、幼稚園や保育園でも、親の手元を離れたところでは、子どもは「自分の世界」の中で、他の子ども達の中で生きているのです。親元の離れるのは、それほど遠くはないのです。
 だからこそ、親は子どもを守ると同時に、子ども自身で「考え、判断し、行動する力」を、日ごろの家庭生活の中で育ててやらなければなりません。

親はよく「思いやりのある子供に育って欲しい」と言いますね。
自分で考え、判断出来ない子どもは、何でも人任せ。それは同時に、自分自身のことを真剣に考える力も育ちません。自分のことを真剣に考えられない子どもは、所詮、他人のことを考えるだけの力などは育たない・・・かわりますよね。

「考える力を養うこと」それは「「生きる力を育てること」です。